狼の口 第8巻のモルガルテンの戦いは本当に湖の沿岸で行われたのか?

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狼の口が第8巻で完結しましたね。

最後は第1巻で予告したとおり、モルガルテンの戦いで物語が締めになりました。

手に汗握る盟約者団とレオポルト公との最終決戦。絶体絶命の危機とそれを乗り越えた大逆転は、まさに傑作の名にふさわしいです。

惜しむらくは最後のヴァルターの活躍が、あまり格好良くなかったところでしょうか。スイスは一人の英雄が作った国ではなく、民衆が強靱な忍耐の末に建国した、という事情が背景にはあるのだとは思いますが、ちょっと残念でしたね。

ところで、作中では敵のレオポルト公は盟約者団の残党を追って北上し、エーガーイの湖面のすぐそばで盟約者団の本体と衝突しました。実はこれは、通説とは進行方向が逆で、かつ戦場も湖面に近くなっています。

狼の口 第8巻より、レオポルト公の進路。

狼の口 第8巻より、レオポルト公の進路。北上して盟約者団の残党を追撃している。

それでは、モルガルテンの戦いでは、一般的にはどこが戦場だったと考えられているのでしょうか。

通説におけるモルガルテンの戦い

通説では、モルガルテンの戦いはエーガーイ湖の沿岸で衝突をしたのではなくて、湖から少し南下した、湖畔の山麓で戦っていたと言われています。地図を描くとこのような感じですね。

モルガルテンの戦いの地図

モルガルテンの戦いの地図。赤い点線がハプスブルク軍の南下中の戦列で、青い矢印が盟約者団の攻撃部隊

赤い線がレオポルト公率いるハプスブルク軍の戦列で、その側面に向かっている青い矢印が盟約者団の部隊の攻撃です。

つまり、急峻な地形と湖で袋小路にしたというよりは、伸びきった隊列の側面を急勾配を利用して叩くという、日本で言えば、桶狭間の戦いというのが実情に近かったようです。

もちろん逃げ道が味方にふさがれてしまっているため、ハプスブルク軍の騎士の多くが湖に落とされて溺れたというのは事実でしょうが、最初に総崩れにさせたのはむしろ山道における急襲だったということになりますね。

Google マップでの位置

Google マップでもモルガルテンの古戦場の位置の検索ができます。やはり湖の南側の地点を指し示しているのですが、ストリートビューで襲撃された道を歩くこともできるので、気分はハプスブルク軍ですね。便利な時代になったものです。

モルガルテンの戦いの描写

場所が湖面のそばでないため、モルガンテンの戦いの一般的な描写も、狼の口とは少し異なります。マクラッカンのスイス共和国の誕生 (The Rise of The Swiss Republic) の記述を少し長いですが引用してみましょう。なお翻訳は筆者によるものです。


ハプスブルク家と盟約者団の両勢力の戦闘準備は整った。1315年、王弟レオポルト公はアールガウ州の配下の騎士と領地から集めた歩兵からなる恐るべき軍勢を集結させた。モルガルテンの戦いの最も詳細な内容を知ることができるのは同時代の歴史家である (ヴィンタートゥールの) ヨハネス・ウィトデュラヌスに負うところが大きい。その彼はこう記している。「この軍の兵士はただ一つの目的のために集まった。壁のようにそびえ立つ山々に囲まれた農民どもを完全に屈服させ、虐殺するためである。」

レオポルトの攻撃の計画は、どの観点から見てもよくできたものであったが、しかし実行は軽率だった。彼の主力はシュヴィーツ州を進軍し、ザッテルの低地の道でモルガルテンの麓を巡り、一方、少数の分遣隊はウンターヴァルデン州で作戦に向かった。これらの2州で逃亡の余地のないネットワークを構築することが目的だった。

この時、盟約者団も手をこまねいていたわけではない。ルードヴィグ王はここまで盟約者団を支持と義務の免除を宣言して、フレデリックによってシュヴィーツによるアインジーデルンへの襲撃の罰として制定された、治外法権および政治活動禁止令の無効化した。しかしルードヴィグは物質的な援助を一際行わなかったし、盟約者団もルードヴィグ王の精神的なサポートは、ハプスブルク家の勢力によって完全に包囲されている彼らにとっては何の役にも立たないことをよくわかっていた。そこで盟約者団は、前線の防衛に注力し、恐るべき武器として名高いハルバードを準備した。ハルバードは彼らの独創による武器で打撃、刺突に加え、騎馬から引きずり落とすこともできた。また例の歴史家によれば、彼らは古い習慣に従って、大きな作戦の前夜に、天の助けを求めて、公開の祈りを捧げることも忘れなかった。

モルガルテンは、一般的に絵画で想像されているような恐ろしく急峻な山道ではなく、ゆるやかに波打つ、シュヴィーツの村の北に位置する丘の連なりである。そこが風光明媚と言えるとするなら、それは、高いアルプスがないことと、なめらかなスロープによる、ある種穏やかな魅力によるものである。

11月15日、シュヴィーツの軍勢はウーリとウンターヴァルデンの援軍とともに、オーストリア軍を迎え撃つため、ザッテル道に陣取った。オーストリア騎士団の主力の軍勢はエーガーイの湖畔を巡る道に沿って進み、士気も高くシュヴィーツに向かって騎馬を駆った。彼らは日帰りのスポーツに出かけるかのように冗談を飛ばしあい、一瞬たりとも自分たちの勝利の帰途を疑ったりはしなかった。事実、彼らは略奪ができることを確信していて、騎士の従者たちは捕まえた家畜を引っ張るためのロープまで準備していたのである。

この戦いの帰趨を完全に理解するためには、ある地形の詳細をよく理解しておかなければならない。

盟約者団が陣取った、湖のもう一方の端の、戦闘に使われた古道は、左側の現代的な運送道路へ枝分かれしており、モルガルテンの坂に沿って進むと、ショルノの塔と呼ばれている古い小さな砦でこの道路に再び合流する。この古い道だけが盟約者団の勝利の秘密を明らかにすることができる。

騎士たちは、この古道を騎馬で駆け上がるにつれて、装具の重みで疲弊し、必然的に戦線が途切れ途切れになってしまっていた。そして、突然、もし攻撃されたら自分たちが猛烈に不利になる地点にたどり着いたのである。彼らの後ろはここまで登ってきた急峻な道で、右側面は離れ小山になっており、左はモルガルテンの尾根道であった。ここまでの物事の流れを無駄にしないためには、ここで作戦を開始する以外にはなかった。かくして取り囲まれたオーストリア軍は、突然の上からの轟音に頭上を見上げたところ、モルガルテンの大きく突き出た尾根のフィグレルフリューから、多数の岩や大木が彼らの頭上にふりそそいできた。あまり信頼できない言い伝えによれば、最初に打撃を加えたシュヴィーツの 50 人の分遣隊は、祖国から追放された者たちで構成されており、彼らの忠義を愛国心的な行動から証明しようと強く願っていた、といわれている。もし、そうだったとしたら、彼らの計画の効果は覿面で、オーストリア軍は大混乱に陥った。そしてこの瞬間、古道の上方に陣取っていた盟約者団の主力が殺到し、必殺のハルバードを振り回しながら、急降下で抵抗不能な勢いをつけて侵入者たちに突撃した。この自然の罠の前に自慢の騎馬力を発揮することもできず、オーストリア軍は自分たちが今たどって来た湖の方向に押し出されていかざるを得なかった。後退は逃亡に、戦いは虐殺に変わった。ある者は落下物によって破壊され、ある者は斬り捨てられ、またある者は湖に殺到したが鎧の重さで溺れた。残党はオーストリアの守護下にある町の友好的な避難所に逃げ込んだ。

その晩、ヴィンタートゥールにたどり着いた騎士の中に、われらが歴史家ヨハネス・ウィトドュラヌスもいた。「レオポルトは圧倒的な悲しみのあまり廃人になってしまったかのように見えた。これは自分自身の目で見た光景である」と確信を持って記録に残している。「当時、私は学生だったが、他の年長の学生たちと大喜びで一緒に走って、門にいる父に会いに向かった」

参考

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