映画「沈黙‐サイレンス‐」 感想 弱き者がキリスト教の信仰を守るということ

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映画「沈黙-サイレンス-」を鑑賞してきました。

ハッピーエンドではないし、終始真面目な重い雰囲気、しかも 162 分という長丁場の映画ですが、目が離せない展開の連続で意外とだれることがありませんでした。

映画「沈黙-サイレンス-」パンフレット表紙。

映画「沈黙-サイレンス-」のパンフレット表紙。

映画の中での主人公のロドリーゴ神父とキチジローの対比がとても興味深かったですね。片や最強のキリスト教戦士、片やキリスト教徒を名乗らせるのもおこがましい裏切り者。

しかし、実はこの二人は似たもの同士であったのです。

弱い人はキリスト教の信徒たりえるのか

キチジローは傍から見ると決して敬虔なキリスト教徒とはいえないでしょう。

家族が全員踏み絵を拒否する中、一人踏み絵を踏んで生きながらえます。

また懸賞がかけられているロドリーゴ神父の居場所を銀貨 300 枚で奉行に密告してします。

さらに告解して罪を悔いても、何度でもまた踏み絵を踏みます。

しかし考えてみればそれは当然でしょう。いくらキリスト教徒でも自分の命と引き替えにできるほど信仰が強い人は少数派です。たいていのキリスト教徒は弱い人なのです。

それでは踏み絵を踏んだ人はキリスト教徒とは言えないのでしょうか。もし言えないとすると、迫害の最中の日本では、大多数の弱い人はキリスト教徒になれないのではないかという疑問がわいてきます。

ロドリーゴ神父は強き者か

一方で、ロドリーゴ神父は最初はキリスト教の信仰の強い人として描かれます。

イエズス会の派遣する宣教師は、当時の世界最強の聖戦士です。精神的にも肉体的にも卓越し、神の愛を信じて疑わない強い敬虔さを併せ持ちます。

その筆頭であるイエズス会創始者のフランシスコ・ザビエルは、インド、東南アジア、日本、中国で布教を行い、何万人もの住民をキリスト教に改宗させ、キリスト教創立者のパウロ以来とも呼ばれる成功を収めます。

ロドリーゴ神父とガルペ神父はそんなイエズス会が誇る最強の宣教師であり、彼らが失敗したときは日本からキリスト教が滅ぶという強い使命感をもって日本へ向かいます。

そんな最強の二人ですが、ガルペ神父の方がロドリーゴ神父よりもキリスト教徒としての強度が強いことがしばらくすると明らかになっていきます。

踏み絵を踏まないと村の全員に危険が及ぶかもと相談されたときに、ロドリーゴ神父は悩んだ末に「踏め」といい、ガルペ神父はあわてて「踏むな」と訂正します。

また逆さづりにされている日本人たちを見て、ロドリーゴ神父は「転ぶ (改宗しろ)!」と何度も叫びます。

奉行所がガルペ神父ではなく、ロドリーゴ神父の方を棄教させるようターゲットにしたのは、仲間のキリスト教徒を見捨てられない、この心の弱さを見透かされたからでしょう。

モノより信仰

ロドリーゴ神父が五島列島で日本人に布教をしているときに一抹の不安を感じるシーンがあります。

日本人信徒がみな、ロザリオの玉など神父からモノをほしがるのです。

ロドリーゴ神父はこの風潮に危うさを感じ、モノではなく信仰こそが重要なのだということを理解しているのだろうかという疑念を持ちます。

また、物語後半では日本人はキリスト教を理解していないというメッセージが繰り返し出てきます。

殉教者になることをおそれないのは信仰からではなく、死んだら楽園に生けるから。

拷問に耐えるのは信仰からではなく、神父への個人的な信頼から。

デウスと土着の太陽信仰の区別ができていない。

敬虔なキリスト教徒とみなされている日本の殉教者たちは、本当にキリスト教の信仰のために死んでいったのでしょうか。

キチジローの信仰

生きたまま火あぶりにされるような殉教者たちと比べると、キチジローのキリスト教の信仰はとても弱いように見えます。

キチジローはロドリーゴ神父を何度でも裏切りますが、特に銀 300 枚でロドリーゴ神父を売るくだりは、完全に銀 30 枚でキリストを裏切るユダをモチーフにしており、キリスト教徒として失格であることを示しています。

ロドリーゴ神父はそんなキチジローを、ロドリーゴ神父は悪ですらない無価値なモノとみなしていました。キチジローのキリスト教徒としての強度は最弱と言っても過言ではないでしょう。

映画の終盤でロドリーゴ神父も棄教してしまいます。

キチジローと同じようにためらいなく踏み絵を踏み、棄教したことを誓約する文書を何度でもしたためるようになってしまうのです。

このことは、最強のキリスト教徒であったロドリーゴ神父も、実はキチジローと同じように弱い側の人間だったことを示しているのでしょう。

弱き者の信仰

キチジローは何度でも裏切りますが裏切るたびに、罪を後悔してロドリーゴに告解を求めます。

五島列島でも、他の者がみな聖なるモノをもとめるなか、一人ロドリーゴに告解を求め、家族全員が火刑に処されたのに自分だけ生き残った罪を懺悔します。

聖人ではない弱き者にとって、信仰を守ることは、踏み絵を踏まないことでもなければ、罪を犯さないことでもありません。生きていれば聖人でもなければ罪を犯さざるを得ないのです。

キチジローは、何度でも踏み絵を踏みながら、最後まで信仰を捨てずに、棄教したロドリーゴ神父に告解と懺悔を求め続けました。

罪を犯してしまったことを常に悔い改め、沈黙する神とともに正しく生き続けることが、弱きキリスト教徒として生きるということなのでしょうか。

ロドリーゴ神父とガルペ神父が最後のキリスト教徒ならば、キチジローは日本人で唯一のキリスト教徒だったのかもしれません。

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